株式会社せろり企画

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元商社マンの奮闘回顧録(11)
新人研修で同期の皆と初めて顔を合わせた。商社を希望する人間ばかりだから内気な奴など誰もいず、あっという間に皆が仲良くなった。それこそ何年も前から知り合いであったように。

びっくりしたのは日商岩井より上位の総合商社を断った人間が多数いた事だ。
我輩は第一希望だからなんの迷いもなかったが、えらい悩んだ人間もいた。

そりゃそうだろう!巨人からの指名を断って他の下位チームにいこうというのだから親の反対にもあったようだ。理由は面接試験を通じて人事の人に惚れたからというのが一番多かった。

特に東京には藤井次郎という社内では超有名な名物人事課長がいた。社長の名前は知らんでもこの人の名前を知らない人はもぐりといわれるくらいの人だ。

風貌はプロレスラーのブッチャーに似ていて決して男前というわけではないが(失礼!)その人柄は超男前であった。男が男に惚れるというやつですか。

不思議な縁で我輩の仲人もして頂き、結婚式での自己紹介のフレーズは「海部は八郎、藤井は次郎!」であった。この方の事はまたゆっくり話すが、ともかく当時は侍のようなユニークな人が多かった。

研修のスタイルはユニークで座学で学んだのは「一期一会」くらいしか記憶にない。後は、スポーツ、富士山登山、チームを作って芸をきそいあう等々であった。まさに知力より体力といわんばかりであった。

そして若手の先輩が各チームのリーダーとして参加し、会社の事とかも色々教えてもらった。我輩も入社後、リーダーとしてこの研修にも参加した。

新しい仲間、新しい社会人としてのスタートに何も知らずに胸を躍らせていた入社前であった。
| yukihira | - | 14:43 | comments(42) | trackbacks(0) |
元商社マンの奮闘回顧録(10)
内定から入社まで会社に束縛されることはなかった。入社までに簿記の通信講座を受講させられたことくらいである。簿記などやった事がなかった我輩にとってはこれはこれで新鮮でおもしろかった。

入社前の3月に内定者約60名(大阪20名、東京40名)は研修の為 箱根の研修施設に集められた。初めての同期との顔合わせである。

施設について受付のところに宿泊の部屋割りがはってあった。その部屋割りに従って各自宿泊の部屋に荷物をおいた。我輩の部屋にいってみると既に東京からの先客がいるようでハンガーに服がかかっていた。

その服がえらい流行遅れの服で、他の大阪の内定者と「今時 こんな服着る奴は東大生くらいやで」と冗談をいっていたら突然、当人が部屋に戻ってきて「東大のKです。宜しく!」であった。

あまりのドンピシャに大笑いしてしまった。本人はなぜこんなに笑われているのか知るよしもなかったが。

これがK君との長い付き合いのはじまりであった。我輩にとって初めてみる東大生。東大生は別の生き物と思っていたが、中田カウスに似た容貌でお世辞にもエリートとか頭が切れるイメージではなかった。人のよさそうな顔つきであった。

K君は我輩に多くの影響を与えてくれ、そして我輩より先に会社を辞めた。

理由は会社の経営がおもわしくない中、組織再編、人員削減が行われる過程で管理職として何も責任をとらなくていいのか?という実に正義感の強い彼らしい理由からであった。

次の就職も決めているわけでもなく、どないするんやろ?と心配していたら、突然大分県知事に立候補。
結果は僅差で落選したが、翌年の衆議院選挙に出馬し当選。すごいやっちゃ。同期の仲間の心配など余計なお世話であった。
| yukihira | - | 16:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
元商社マンの奮闘回顧録(9)
14年前の4月1日、突然、会社の人事から我輩の自宅に電話があった。
「悲しい報告だが、M君が駐在地のマニラで亡くなった。ついてはご家族が帰国される際に空港まで一緒に迎えにいってほしい」というものだった。

4月1日、エイプリルフール 悪い冗談かと最初は思った。信じられなかった。
人1倍 頑強な体の持ち主だっただけに、病死など考えられなかったからだ。

関西国際空港にはラグビー同好会の連中も皆来ていた。そして憔悴した奥様と
お子様を迎えた時、初めて彼の死を現実のものとして受け入れざるをえなかっ
た。

その後 色々事情を聞くに、彼の部署はマニラのオフィスの中でも利益が上が
らず、かなり悩んでいたという。まじめで頑張屋のM君にとって利益貢献がで
きていないということは、実に悩み深いものだったと思う。後に我輩も北海道
支社に転勤し、支社のお荷物といわれた部署に赴任し、その辛さを味わった。

商社にとって数字が全て。自分の力でなくても儲かっている部署、商権のある
部署に属していればでかい顔ができる。逆にどんなに頑張って逆立ちしても数
字が上がらなければ肩身が狭く、悩む。「正に勝てば官軍」の世界だ。

国内なら相談相手、ストレスのはけ口もあろうが、異郷の地ではそれすらかな
わない。まじめで頑張屋のM君も最後の最後まで悩み苦しんだのではないだろ
うか。

商社マンは確かに過酷だ。加えてプライドが高く、弱みをみせれない。頑張り
すぎるのだ。我輩のまわりの先輩、後輩も若くして亡くなり何度何度も悲しい
葬儀に列席することとなった。

突然のM君との訣別であったが、その後、奥様がM君の所属する金属本部の子
会社で元気に働く姿をみれた事は多いに救いであった。
| yukihira | - | 15:20 | - | - |
元商社マンの奮闘回顧録(8)
キャプテンM君の彼女(奥さん)はラグビー同好会のマネージャーでマドンナ的存在。彼女自身も三和銀行に内定。結婚前提だったのでM君の内定に対しても事のほか喜んでいた。

我輩にも交際している女性はいた。現在の嫁だ。我輩が「鬼」と呼ばれていた事から皆には「鬼姫」と呼ばれていた。幸いにも「鬼嫁」ではない。

我輩が内定したことを知らせても大して喜びもしない。M君の彼女はあんなに喜んでくれているのに!と腹がたった。ある日「なんで もっと喜んでくれないんだ!」と文句をいったら「落ちたとしても変わらない」と言われて我輩目が覚めた。

確かに結果は一番希望した会社に決まったが、最悪の時にはどこにもいくあてがなく、嫁が勤めていたアパレル関係の中堅商社にも面接にいったが、その時も嫁は何も言わなかった。
要は社会的地位、肩書きではないということだ。

結婚後も今まで嫁は、「ご主人はどちらにお勤め?」と聞かれても「大阪本町のあたり」と「札幌駅の近く」としか答えないようだ。

人はうまくいっている時はどうしても天狗になってしまう。特に若ければ若いほど。会社でも仕事が成功すると天下をとったようにはしゃぐものがいる。周りが全く見えなくなるようだ。決して自分一人の力ではないことにすら忘れてしまうから気をつけたいものだ。

入社後、M君は大阪本社勤務。我輩は東京本社勤務となり直接仕事を一緒にすることはなかったが、プライベートでは家族同様の付き合いをし、我々夫婦で大阪に行った際は家に泊めてもらったりもした。楽しい日々であった。

あの頃には先に不幸が待っていようとは夢にも思わなかった。
| yukihira | - | 11:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
元商社マンの奮闘回顧録(7)
日商岩井3次面接。
2次面接はたったの5分のぼろぼろ結果と思っていただけに喜びいさんで試験場へ。が、待合室で嫌な男にあってしまった。最もここであいたくなかった男だった。

同じラグビー同好会のキャプテンのM君。

OBからはは同じクラブからは2人も採用しないと聞いていた。当然である。関学からだけでも何百人も受験し、採用はわずか4〜5人である。そんな狭いフィールドから同じ系統の学生を2人も採用するのは理にあわない。

顔を合わせながら、お互いに「やっぱりお前も残っていたか・・・」

心中穏やかでなかった。彼はキャプテン、我輩は3年からの入部。キャプテン1浪、我輩2浪。客観的条件では勝てない。えーい 後は野となれ山となれ。

3次面接は重役面接。
噂では絶対に学生には訳せないような英文を渡し、ピンチに直面した時の対応ぶりを見るとか、「特技は何ですか?」「英語です」と答えようものなら英語がペラペラに喋れる社員を連れてきて試されるとか聞いていた。

だが、面接は実にあっけなかったし、とんでもないことも聞かれなかった。だから逆に何を聞かれたかもあまり記憶にない。

一つだけ記憶にあるのは特技を聞かれたこと。
周囲を見回してから「バイオリン演奏です」。小学校の時に1年間だけやっていたのは事実だし、まさか会社の中にバイオリンはないやろ・・・・。

なんの手ごたえも得られなかった面接だったが、なんと結果は2人とも内定した。信じられなかった。二人とも多いに喜んだ。

そして入社後も生涯無二の親友となるはずであった・・・。
| yukihira | - | 21:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
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