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長所半分、短所半分

人間というのは、他人の欠点に目がいくものです。ましてや上司というのは自分に指示命令し、叱ったり怒ったりするのですから、同じ会社の仲間であるとはいえ対立する場面がたびたびあります。

ですから、なおさらその欠点が目につき許せないと思うのは当然です。

しかし、どんな人間にも長所と短所が半分ずつあります。

自分の気に入らない部分が半分あって当然と考えなければ他人とつき合えませんし、人を好きになることもできません。

そもそも長所か短所かは、あなたが勝手にそう見ている場合だってあるのです。


例えば、テキパキと決断していくスピーディーな上司が、あなたには独善的で人の話を聞かず一方的に決めつける上司に見えるかもしれません。また、面倒見がよくていろいろと気にかけてくれる上司を、いちいちうるさくてかなわない人と感じているかもしれません。


「日本には上り坂と下り坂、どちらが多いか知っていますか?」という問題があります。もちろん同数です。同じ坂でも、上から見れば下り坂で、下から見れば上り坂です。

人間の長所・短所もまったく同じです。長所そのものが短所であり、短所が長所になるのです。それが自然の摂哩です。

イエス・キリストにこんな話があります。

ある女性が姦淫(カンイン)の罪を犯しました。当時のユダヤ社会では、姦淫の罪を犯した者は法に従って石打ちの刑にすることになっていました。参考までに日本の江戸時代は死刑です。

そのような形で償いをさせることは、善であり、正しいことであり、裁きの神が命じていることでした。ですからその女性に、いまにも群衆が石を投げようとしていた状況のなかで、イエスは「あなたはどうするのか」と問われたのです。

女性をかばえば、法に背くことになります。法に従えば、これまで語ってきた愛が嘘になります。どちらを選択しても矛盾になってしまいます。

イエスはしばらくして、群集に向かってこう叫びました。
「あなたたちのなかで罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

それまで、姦淫の罪を犯した女性を非難し責めていた群集は、このイエスの言葉によって、一瞬のうちに自らを見つめざるを得なくなりました。

「罪を犯したことのないもの」果たして自分はどうだったのか… 。罪のない者だけが他人を罰せる… 。群集の熱狂は嘘のように静まり返り、一人また一人とその場を立ち去っていきました。


この逸話のように、誰も完壁な人などいません。存在そのものが
不完全にできているものなのです。

それでも、あなたは人に向かって石を投げつづけるのですか?

 

posted by: serorikikaku | - | 06:42 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
世渡り上手
 
動物は相手に楯びるとき、自分の腹や尻を見せる。「あなたの意のままにしていただいてけっこうです」というサインなのである。こうされると、相手のほうも、じゃけんにはできない。弱みを見せるということを嫌う人は多いが、「可愛げのある人」というのは、弱みをさらけ出すのがうまい。


およそ日本では、上役というのは、自分の部下の面倒を見たがるものだ。よほどの変人でもないかぎり、「交渉がうまくいきません]といえば相談に応じてくれる。


こんな相談や問題処理をしていくうちに上役と部下の考え方が通じるようになっていく。


ところが、自分の弱みを見せるのが極端に嫌いな人は、問題が生じても何とか自分一人で解決しようとして、かえってトラブルを大きくしてしまったりする。

ああだのこうだのと問題を持ってくる部下に対して、上役は「全く手のかかるやつだ」と思いながらも、憎めない気がする。

反対に、弱みを見せまいとする人に対しては、「可愛げがない」と感じるわけだ。


上役に助けてほしいと救いの手を求める場合には、いろいろなテクニックがあるという。

たとえば、ある新聞記者は、自分の書いた原稿の中に、二、三か所まちがいを残しておくそうだ。そうすると、編集長やデスクが原稿に目を通して、「何だ。こんなところでミスして」と、笑いながらチェックする。

つまり、完塗な原稿を書くより、二、三か所、上役が手を入れられるようなスキをつくっておくのがテクニックだというのである。

人間には誰でも弱みがある。弱みのない人間などいない。ところが、それを上手に開放できるかどうかで、「気楽な人間関係」と「堅苦しい人間関係」に分かれてしまう。


堅苦しい人間関係の中では、なかなか上役はアドバイスしにくいし、企業秘密などもしゃべってはくれない。だからこそ、上役との間に距離をつくってはいけない。そして、そのためには、弱みをさらけ出すという行為はたいへん効果がある。

posted by: serorikikaku | - | 07:34 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
謙虚2

【私は考えなかった。ただ探究した】ウィリアム・レントゲン


「レントゲンを撮る」という表現はよく使われる。この「レントゲン」とは正しくはレントゲン線のことで、発見者の名前からこう呼ばれている。同じ意味を持つX線は、「未知の線」という意味で彼自身が名づけたものである。


1895
年、レントゲンは放電管を使って陰極線の実験をしている時、蛍光板が光っているのに気づく。物質を突き抜け、蛍光作用を持つ新しい光線を発見した瞬間だった。


それから6 週間にわたり、新しい光線の特性を調べ、この光線のなかで手をかざすと骨格が写ることも見つけたのである。

この世紀の大発見により、レントゲンは第1 回ノーべル物理学賞を受け、その名前は不滅のものとなった

しかし、レントゲンが遺したのは名前だけで、大きな富を築くことはなかった。

謙虚な人柄だった彼は輝かしいこの功績を誇ることもなく、発見は偶然だったと述べて、そこに至るまでの記録を処分してしまったという。

研究一筋の彼は、特許を取って財をなそうなどとは考えてもみなかったようだ。もったいない・・・と考えるのは私だけ?


「世間の目にどう見えるのかわからないが、私は自分のことを、海岸をぶらぶらして、きれいな小石や貝殻を見つけては遊んでいる子供に過ぎないと思っている。真理の大海はいまだ未知のまま私の前に広がっている。」


万有引力の法則を発見したことで名高いニュ−トン。力学体系を築き上げ、数学、光学の分野で大きな功績を残し、近代科学の建設者と言われる人物であるが彼がこの世紀の法則を発見した後に残した言葉がこれである。


彼が語ったこの言葉は、単なる謙虚さのあらわれではない。彼の頭にあるのは神という絶対的存在であり、その前では人間は小さい存在に過ぎず、世間でよく知られる発見をしたところで、それは海辺できれいな石や貝殻を見つけるようなものだと言っているのだ。

 

 

 

 

 

posted by: serorikikaku | - | 08:06 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
謙虚1

リーダーにとってカリスマ性、強引さも必要であろうが、私利私欲のない謙虚さほど人をうつものもないと思います。

【私は受賞に値しないが世界の最も貧しい人々にかわり賞を受けました。】マザー・テレサ


マザー・テレサの偉業を知らぬ人はいないと思う。故国を離れた彼女はインドへと渡った。貧しい人々への奉仕活動に対して、はじめは改宗目的だと懐疑的に見る者もあったが、すべての人を寛容の精神で包み込むマザー・テレサは、やがて周囲から尊敬と称賛を得ていく。


最初はカルカッタで修道会の営む高等女学校の教師をしていたが、ある時、貧しい人々のなかでキリストに仕えよとの神のお告げを聞き、「神の愛の宣教者会」を創設しようと決意したという。

ロレット修道会を離れて、ひとりスラム街での奉仕をはじめた彼女は、宣教者会の創設許可が下りるとスラム街に拠点を置き、子供からハンセン病、結核などの患者たちへと活動対象を広げていった。行き倒れになった瀕死の人々を収容する「死を待つ人の家」も開設している。


活動が世界に知られるようになると、広く支援が集まり、世界中の被災地での救済活動もはじめた。そしてその後、世界各地に500 を超える修道院がつくられるまでになった。


1979
年にノーべル平和賞を受賞した折には、貧しい人々 への献身的活動が世界中で報道された。これは、その時発した彼女の言葉です。

無償の愛を貫いたマザーテレサ、こんな人ばかりがもっと回りにいてくれたら・・・とかなわぬ夢をもつより、自分自身がマザーテレサのようになれるよう日々精進、精進。

 

 

posted by: serorikikaku | - | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |
ビジョン3

人にはそれぞれ、「したいこと、できること、すべきこと」があります。この三つをどのように考えていくかが大切です。これらがうまくバランスしていれば成功できますが、バラバラであれば苦労の割にはうまくいかず評価も低くなってしまいます。


本人は普通にやっているのに、手を抜いているように見える。まして、本人は精一杯がんばっているつもりなのに周囲には遊んでいるようにしかうつらないとしたら、最悪です。


そういう人たちというのは、「したいこと、できること、すべきこと」の三つがほとんど重なっていないのです。


努力とは、その三つが重なり合っていない状態で、自分に向いていないことを無理してやっているときに、本人が感じるものなのかもしれません。


「私は金をいじるのは不得手だから、人にやってもらう。私は不得手なことはやらず、得手のことしかやらないことにしている。人生は「得手に帆あげて」いきるのが最上だと信じているからである。得意なことをやっていても
99
%失敗するのに、苦手なことに手を出したらほとんど絶望的だ」本田宗一郎氏


本田氏のいうように、苦手なことをやっていたのでは、スタート時点からなかなかうまくできません。また、努力したあとの最終的な到達点も低くなってしまいます。


一方、得意なことであれば、おのずとはじめから人よりうまくできるし、同じ努力をしても最終的な到達地点が高くなります。

そもそも組織というのは、得意なことをするためにあるのです。1+1が3とか4にならないのであれば組織とはいえません。

苦手なことまで自分でしなければならないのであれば、組織をつくって集まる必要性はないのです。それぞれが、個人商店のように別々にやっていればいいのですから。


本田宗一郎氏と藤沢武夫氏の関係こそ、真のパートナーであり組織なのです。専門分野も性格的にもまったく異なる二人が、得意なことをそれぞれがする、苦手なことはお互いにまかせてやってもらう、このように強みを活かし弱みを補うという関係があってこそ、はじめて一緒に仕事をする意味があるのではないでしょうか?


posted by: serorikikaku | - | 07:38 | comments(0) | trackbacks(0) | | ログピに投稿する |